最大野党候補の文氏 人権派弁護士から政治立て直しの旗手へ-Chosun … – 朝鮮日報

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【ソウル聯合ニュース】5月9日に投開票される韓国大統領選で、最大野党「共に民主党」の公認候補に決まった文在寅(ムン・ジェイン)前代表(64)は2012年に続き、2回目の大統領選への出馬となる。

 一浪の末に大学に入っており、自ら「浪人(2回目の挑戦)に強い」と口癖のように話す。

 文氏は、貧しかった幼少時代が自分を鍛えてくれたと振り返る。朝鮮戦争で避難生活を余儀なくされた父親が他界し、司法の道を志した。

 故盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領と手を組んで人権派弁護士として活躍し、社会的弱者の味方となったが、盧政権では大統領秘書室長として政権のナンバー2に就任し、親盧武鉉派とのレッテルがつきまとうことになった。

 12年の大統領選に野党統一候補として出馬した文氏は、与党候補だった朴槿恵(パク・クネ)氏に惜敗した。皮肉にも文氏が「新人政治家」から脱皮して臥薪嘗胆の努力をしたのはここからだった。

 最大野党の代表を経て分裂した党を再建し、昨年の国会議員総選挙では共に民主党を第1党に導いた。

◇母の練炭配達を手伝った少年時代 飲酒・喫煙も

 文氏は1953年に南部の慶尚南道・巨済で2男3女の長男として生まれた。両親は北朝鮮北東部の咸鏡南道・興南の出身で、50年12月に米軍と韓国軍が民間人約10万人を避難させた「興南撤収作戦」で米軍の艦艇に乗って韓国に渡り、定住した。

 小学校入学時に釜山市影島区に転居したが、救援物資を受け取るためにバケツを持って長い列に並ぶなど、貧しい生活が続いた。

 勉学に励み、名門の慶南中・高に入学したが、中学時代には裕福な友人を見て社会の不平等さを感じたという。

 高3の時には酒を飲み、喫煙もした。名前をもじって「問題児」とのあだ名がつけられ、4回の停学処分を受けた「問題学生」だった。

 1浪して入学した慶煕大法学部時代は学生運動に熱中した。75年に大規模なデモを主導し逮捕され、大学を除籍された。

 釈放と同時に徴兵され、特殊戦司令部で軍生活を送った。上兵時代の76年には北朝鮮との軍事境界線のある板門店で起きたポプラ事件の対応作戦にも投入された。

 除隊以降は父親を亡くした悔恨の念を胸に司法試験の勉強にまい進し、79年に1次試験に合格した。しかし79年の釜馬民主抗争や朴正熙(パク・チョンヒ)元大統領暗殺事件、粛軍クーデター「12・12事態」の混乱の中で再び逮捕された。2次試験の合格の知らせを聞いたのは留置場の中だった。

◇司法研修「次席」でも判事の夢断念 盧武鉉氏と運命的な出会い

 司法試験に合格し、生まれて初めて平坦な道を歩み始めた。7年間の恋愛の末にキム・ジョンスク夫人と結婚し、1男1女をもうけた。

 司法研修は次席で修了した。判事を志望したが、デモに参加した経歴のために叶わなかった。大手法律事務所のスカウトを断り、釜山に戻ることを選んだ。82年、盧武鉉氏との運命的な出会いの始まりだった。

 意気投合した2人のもとには様々な人権・労働事件が舞い込んだ。文氏は著書で「人権弁護士の道を選んだ理由は、弁護士が単純に生活の手段になってはいけないと考えたためだ」と記している。

 87年の6月民主抗争では釜山の民主化運動を主導した。88年に盧氏が国会議員選挙に出馬し、政界入りしたが、文氏は労働問題専門弁護士を続けた。盧氏が大統領に当選した02年、文氏は盧氏の釜山選対本部長を務め、2人は再び手を組んだ。

◇盧武鉉政権のキーマン 「親盧武鉉派」に 

 文氏は盧武鉉政権の発足から終息までを共にした。歯が10本も抜けるほどの激務に追われたが、党からの国会議員選挙への出馬要請を拒否したために居心地が悪くなり、青瓦台(大統領府)の民政首席秘書官を1年も経たずに辞任した。

 自由の身になって向かったヒマラヤでのトレッキング中に盧氏の弾劾のニュースを聞き、急きょ帰国して弁護団を結成した。弾劾が棄却された後、市民社会首席秘書官として青瓦台に復帰し、民政首席秘書官を歴任した。盧武鉉政権の最後の年である07年には秘書室長を務め、「同志盧武鉉」と栄枯盛衰を共にした。

 盧氏が朴淵次(パク・ヨンチャ)元泰光実業会長から賄賂を受け取った疑惑が公になると、弁護士兼報道官として積極的に対応した。盧氏の死去の際には国民葬儀委員会運営委員長として葬儀を取り仕切り、その後は盧武鉉財団を設立して理事長を務めた。

◇「新人政治家・文在寅」 政治立て直しの旗手として大統領選に再挑戦

 盧氏の死去後、文氏は09年の国会議員補欠選挙や翌年の釜山市長選候補として取り沙汰されたが、政界とは一線を画した。

 しかし、文氏の政界進出を推す声は大きく、結局政権交代という大義名分で野党大統合の中に飛び込み、12年の国会議員選挙で当選した後、大統領選候補として乗り出した。

 安哲秀(アン・チョルス)氏と候補一本化をめぐって紆余(うよ)曲折の末、大統領選では48.02%という歴代野党候補最高の得票率を記録したが、朴槿恵(パク・クネ)候補に敗れた。忍苦の日々を送った文氏は、14年12月に党代表選に出馬した。

 党代表になった文氏は刷新を繰り返したが、翌年に安氏が離党したことで党は分裂状態となり、最大の危機を迎えた。金鍾仁(キム・ジョンイン)前党非常対策委員会代表を擁立して昨年の国会議員選挙を勝利に導いたが、文氏に対し「覇権主義」との批判が続いた。

 昨年下半期には、朴槿恵容疑者と親友の崔順実(チェ・スンシル)被告をめぐる国政介入事件による弊害清算の適任者として文氏の名前が取り沙汰された。

 予備選挙には勝利したものの、立ちはだかる壁は少なくない。

 安熙正(アン・ヒジョン)忠清南道知事と李在明(イ・ジェミョン)城南市長を抱き込み、2人の支持率を取り込まなければならない。反文在寅を旗印とした政界の連帯の動きも突破しなければならない。大統領選までわずか36日を残し、文氏が半年近く続いている支持率1位の座を守れるかが注目される。

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