83歳筆者が考える「昔はホントに良かったのか?」…かつての「飲みニケーション」を思い出しつつ – Jタウンネット

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画像はイメージです(Gemma Amorさん撮影、Flickrより)

Cheers!

「昔は良かった」。年配者ならずとも、人間ちょっとでも年を重ねると、ついついこの言葉が口をついて出てしまうものだ。

しかし、「昔はホントに良かったのか?」。83歳のぶらいおんさんは、そんな疑問を提示する。今回のコラムでは、かつての特許事務所時代の仲間たちとの交流にも触れながら、このテーマを考える。

画廊の「オープニング・パーティー」とゴーゴー喫茶と


   『昔は良かった!』どの時代でも、大体年寄りが若者に向かって漏らす言葉として、定着している、と言えるだろう。

   そして、かくいう筆者も、後半年を経ずして満84歳となる状況だから、将に年寄りそのもの、というわけである。

   それなのに、敢えて、また、使い古された、そんなセリフの下に、コラムを書いてみようか、と思い至ったのは、次の次第による。

   昨年の暮れに、筆者より略10歳年下で、昔、東京丸の内の、同じ特許法律事務所に勤務していた仲間であり、また2001年の暮れに創刊し、筆者が発行人および編集責任者として10年間弱、深く関わった「PAM」という文芸同人誌の同人でもあったY氏と電話で会話した際の彼の発言内容に、次のような話題があったからだ。

   Y氏の、確か姪御さんだった、と聞いたはずだが、彼女が、その仲間と共に、然る銀座の画廊で展覧会を開いた、という。そのオープニングにY氏が顔を出した際の話なのだが、その前に、筆者とY氏の話題が何故?そういった方向へ進んだのか、という背景を説明して置いた方が、分かり易い、と思われるので、先に、その説明をする。

   実は、筆者の友人には画家または版画家が可成り多い、物書きよりもだ。筆者自身は、画や版画に直接手を触れることは無いのに…、である。

   その理由には、こんな背景がある。

   筆者が勤務していたような、大手の特許法律事務所ともなると、職種にもバラエティがある。

   先ず、「特許事務所」と名乗っている以上、この仕事に関わる「弁理士」が居り、また「法律事務所」と名乗っているのだから、これに携わる「弁護士」も存在する。そして、彼らの業務を遂行するために最終的に必要な申請書類などを完成させるために、各分野に亘る様々なスタッフが必要となる結果、筆者やY氏のような職種の人間も、ここで仕事することになる。

   それは、たとえば、外国人の関わる日本への特許出願、訴訟などのために、あるいは国内から外国への特許出願、訴訟などに関しては、これらのコミュニケーションに関わる、筆者のような翻訳者が存在し、また、特許や実用新案、更に意匠や商標出願に添付する必要のある図面を作成するためのエキスパートを要することになり、そのスタッフの一人として当時、Y氏も、その勤務先に、筆者と同じように在籍していた。

   この特許法律事務所は、歴代所長の嗜好もあって、昔の貴族社会におけるパトロン的感覚を有する経営者が続いて居た。その結果、意匠出願に添付する「意匠図面」などには、美しく彩色した意匠を、優れたセンスと手刷りの印刷機を巧みに使用して精度の高い「意匠図面」を完成させることが求められ、その為には優秀な画家や版画家の技が有用であった。

   そんな関係で、この事務所には、若手の画家や版画家が登用され、彼らは、ここでの仕事で生活の糧を稼ぎながら、勤務時間外には、自らの創作に打ち込んでいた。

   こうして、筆者は同時期に勤務していた同僚として、一人の画家と、もう一人の版画家と親しくなった。彼らの年齢は筆者より数歳年下であり、また、それぞれ筆者同様に、その特許法律事務所を定年まで勤め上げること無く、或る程度作品も売れるようになり、生活も絵画教室で教えたりすることで安定して来ると、それぞれ芸術家として、ここから巣立って行った。

   そういう人達だから、ここで本名を明記しても、別に差し支え無いと考えるが、これまで連載して来た当コラムに登場した、筆者の知り合いや友人達は一応ローマ字のイニシャルで表記して来たので、ここではそれに習うことにして、画家の方をUさんとし、版画家をKさんと呼ぶことにする。

   実は、この後者のKさんは、今でも筆者の親友を挙げるとすれば、間違い無くその一人に含まれる人なのだ。とても、人間的に良い人で、育った環境などは筆者とは全く異なる、と言ってよいのだが、それが、むしろ、お互いに却って良かったのか?互いに相手から学び取るものも多かった上、更に、彼とは妙に馬が合った。余談であるが、一時期、当時の埼玉県鳩ヶ谷市で、隣り合わせの借家住まいをしながら、今(の地下鉄)とは違い、交通渋滞しがちなバスに延々と30分以上揺られつつ、川口駅や、赤羽駅に出、京浜東北線で東京駅まで行き、後は歩いて、丸の内の事務所まで通っていたこともあった。

   経済的には貧しくとも、精神的には非常に豊かな生活を送ることの出来た、懐かしい時代である。

   最初に出会ったときは、彼が創作するシャープな作品とはおよそ懸け離れた印象、一言で言えば、良い意味で「朴訥な田夫」そのものを感じさせられたし、実際に、東京へ出るまで、田舎では牛を追いながら、絵を描いていたという。学歴は新制中学卒業ということだそうだ。今は80歳だから、都会暮らしを略60年続けて、良くも悪くも学び、年齢相応の「大人」になられたもの、と筆者は感じている。

   このK.K.さんは版画家としても、素晴らしい業績を残している。ここに、その一部を列挙すると、1964年毎日現代美術展で「鎌倉近代美術館賞」、1966年東京国際版画ビエンナーレ展で「国立近代美術館賞」をそれぞれ受賞され、彼の作品が収蔵されている著名美術館などには、「大英博物館」、「ワシントン国会図書館」、「京都市立美術館」、「東京都美術館」など錚錚(そうそう)たる所が挙げられる。

   このKさんからは、人間が生きる上で、基本的に大事なことについて、色々教えられた。世の中には、筆者の承知している「価値観」とは、全く別なものが存在し、そういったものを拠り所にして、飄々と生きて行ける人生もあるのだ、と痛切に気付かされたことは筆者にとって大変大きい。それ以後の筆者の生き方に大きく影響を与えたことは間違い無い。

   さて、そうした特許法律事務所の勤務時間を終えると、KさんやUさん、それと前出のY氏(彼は、その事務所内に設けられていた絵画教室のUさんやKさんの弟子の一人だった。)などと一緒に、歩いても、そう遠くない銀座の画廊へと繰り出した。無論、個展やグループ展における絵や版画を観るためであるが、特に、展覧会初日のオープニング・パーティーが楽しみで、それを目指すわけである。

   オープニング・パーティーには、大勢の作家や評論家、また彼らの友人や同行者など、種々雑多な人間が集まる。知り合いもいれば、知り合いの知り合いがいたり、全く知らない人々も居たが、適当にそこで知り合ったり、語たり合うのが(大抵の場合)楽しく、また色々な点で役に立つこともあった。

   会場には、お祝いのウィスキーやワイン、日本酒や焼酎なども持ち込まれ、また、画廊側でも簡単なオードブルやつまみなどを用意しており、飲んべえには勿論、筆者のように然程いける口で無くても、気楽に人々と交流出来る、本当に楽しい場、と言うことが出来た。

   ところが、前出のY氏によれば、姪御さんのグループ展初日には、そんな雰囲気は全く無かった、というのだ。彼の言によれば、「第一、それらしいテーブルの用意さえ無かった」そうだから、今や「オープニング・パーティーの酒盛り」など”夢のまた夢”ということらしい。そして、どうやら、そういうのが、むしろ普通になってしまったらしいが、実際には最近、取材して確認した訳では無いから、例外もまだあるかも知れない。

   それでも、そんなに変わってしまった環境について、Y氏との電話では「それは淋しい限りだね。そうしてみると、矢張り昔は良かったのかなぁ!」という話になった。

   また、その時代の同じ頃、筆者は、勤務先事務所で外国事務関係のスタッフを纏める中間管理職を仰せつかることになった。

   当時、今では珍しくも無い酒場の、いわゆる「ボトルキープ」という仕組みを、安月給のサラリーマンでも気軽に利用出来るような店が銀座辺りにも数多く出現したことがあった。

   その頃、『ゴーゴー喫茶』とも呼ばれていた、その種の店は、昼間とは違い、夜になると、大衆的な安ウィスキーなどでも、キープすることが出来て、そのボトルがあれば、テーブルチャージと安いつまみを取れば、OKで、その頃、流行った、そのゴーゴー・ダンスに現を抜かし、結果的にストレスを発散させることも出来た。

   筆者は、そうした仕組みを利用して、UさんやKさんと気楽な付き合いを続ける一方で、外国事務課の、男女の部下達を親睦目的で誘ってリラックスしたつもりだったが、現在色々問題となっているらしい、こうした「飲みニケーション」のやり方は矢張り、今の感覚からすれば、余り適切では無かった、ということになるのだろうか?

   結局、今となっては、本当のところはどうだったのか?良く分からないのだが、もう既に若くして故人になってしまった、筆者が片腕のように頼りにしていた男(Y君)は、これは二人とも、その職場を離れた後の話なのだが、その当時の仕事や、こうした雰囲気作りを、彼が、非常に懐かしんでいたのを今になって思い出す。

   こうしてみると、「我々が実践していた飲みニケーション」も人によって、また時代によっては、決して悪い一方の、やり方では無かったのかも知れない。

   今の時代では、たとえ、俄に、一般的には許容されそうも無いことであっても、時代が異なれば、また価値感によっても、当然、その受け止め方も異なって来るものなのであろう。

   「本当に昔が良かったのか、どうか?」俄には決められまい。多分、良いことも、悪いことも、その時代を背景にして、”ある”ということなのだろう、当たり前と言えば、当たり前の話だが…。

   (手の内を明かすことになるが)次回コラムのテーマとして取り上げようとしているのは、個人的な環境を離れて、より社会的な問題に関するもので、筆者は、今現在、世界中で大きな問題となっている「難民問題」を考えてみようとしている。

   それは、今世紀に入って、一気に噴出した最も醜悪な社会現象の一つと思っていたが、ちょっと調べてみただけで、そうでは無く、前世紀から人類が引き摺っている、いわば「人間の本質」に関わる根本的な問題かも知れぬ、と思い始めている。

   「昔」というものが、本当に、そんなに良かったのか?

   「昔」を知らない者には判断のしようが無いし、「昔」を知っている者でも「昔の悪いこと」をコロッと忘れてしまって、「良いこと」だけの想い出に浸り切っているのかも知れないでは無いか。

   いつの時代にも、そのように発言する年寄りがいて、それを聞かされる若輩もいて、その若者たちも、いずれ年寄りになって、また同じことを、また同じように「漏らす」…。それが「人間」の宿命というものなのかも知れない。

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筆者:ぶらいおん(詩人、フリーライター)

東京で生まれ育ち、青壮年を通じて暮らし、前期高齢者になってから、父方ルーツ、万葉集ゆかりの当地へ居を移し、地域社会で細(ささ)やかに活動しながら、105歳(2016年)で天寿を全うした母の老々介護を続けた。今は自身も、日々西方浄土を臨みつつ暮らす後期高齢者。https://twitter.com/buraijoh





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